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目次

- 1.天目とは  2.瀬戸と天目  3.耀燦天目 -

 
- 1.天目とは -

 〜1-1 天目とは何か〜

読みは「テンモク」と読みます。その始まりは12世紀の事。宋の混迷の時代の中で生まれた禅宗。その習慣である禅茶。すなわち茶道の源流において、茶のために特別に製作された茶碗こそが天目茶碗です。

中国・宋の時代。今の福建省に在った 建窯 という名窯に於いて作られた黒い釉薬の、独特の形をした新しい茶碗こそが禅茶の茶碗であり、中国の禅寺には必ず、天目の茶碗が共に在り、茶という”妙薬”を珍重し、大切に頂くための器として、特別に考案されたものでした。

当時の日本。鎌倉・室町の時代。天台宗にしても曹洞宗にしても、日本の高僧が中国へ留学し、最先端の宗教哲学や文化・技術というものを持ち帰っていた時代。その主たる留学先であったのが、中国の天目山に在る禅寺でした。日本茶道の源流は禅僧ですが、禅の源流は中国です。天目は、中国の禅様式の中で、修行の一環として非常な流行を見せていました。日本から留学した禅僧がこれに習い、その風習を持ち帰ったのが茶道の始まりです。以後、茶の湯ではその形状・釉薬を指して天目と呼び、禅の源流の風を感じて珍重しました。

天目は数多く焼かれましたが、中でも最高の品であった曜変天目・油滴天目については”御物”として足利将軍家に秘蔵され、信長が秘蔵し、代々と受け継がれ、現代では国宝として指定されるに至る著名なものであります。

格付けとしては宋の建窯のものが最高のものとして君臨し、宋の時代、中国禅の流行と共に興り、流行と共に廃絶した屈指の名窯です。利休時代には400年を経ており、舶来の最高品として、高価な骨董品でありました。これを特別に 「建盞」(ケンサン) と呼びます。国宝各種は当然、建窯で焼成されました。

利休の時代には建窯が廃窯となっていました。よって、同じ福建省の茶洋窯にて、日本輸出用として劣化版の天目が焼かれます。日本でも模倣焼成した瀬戸天目が生まれました。灰被などはその例です。茶洋窯のものは「建盞」とは呼びません。当時には天目という名と「建盞」という呼び方があります。建窯の天目、「建盞」には”格別の品格”と”黒色の深さ”があり、後に作られた天目の追随を全く許さないものとして品格を持っています。理想として追い求められた品として、それは格別のものです。

古来、珍重された証として有名な事では、名品の持つ覆輪(フクリン)、及び茶碗に添えられる天目台の存在があります。覆輪とは、口辺を守るように金板を加工した嵌め輪。金属工芸です。銀板なども用いられています。天目台もそれぞれ中国渡来であったり特別なものが多く、一つの茶碗に対して特別専用の天目台を添えて伝来されているものも多くあります。あらゆる点で他の茶碗類とは一線を画しています。13世紀に輸入されて以降、天目はそれほどに大切に、最高位の焼物として扱われてきました。

利休が初めて触れた茶道の世界。それは天目茶碗の世界でありました。

 〜1-2 天目の形〜

形状は特殊。高台は小さく絞られており、碗の形状は直線的。口辺は”捻り返し”による通称”すっぽん口”であり、腰元の土は厚く、非常に重量があります。その特徴は、元より禅の茶と共に興り、禅の茶と共に廃れた様式でありますから、理由あっての事。”天目台”と呼ばれる特別な台に載せて行われる様式に従ってのものであり、一般的に天目形(テンモクナリ)と称されるものはこの約束事に従ったものとなります。

色彩は黒。厚みのある鉄の釉薬は深い黒色を持ちます。又、古来珍重され、現在は国宝の地位にある曜変天目、油滴天目、また禾目天目などで知られる様に、鉄の呈色の変幻として茶や赤、金や銀、虹色など、その景色には様々な色彩を帯びている事も珍しい事では無いのですが、本来の色彩である黒の深さこそが天目の見所となります。黒があってこそ、油滴の景色や窯変の景色が存在します。

余談ながらで言えば、須らく茶道の根本は「無紋」であります。漆器においても”漆黒”と言われる様に品のある「黒一色」が最高の美でありますが、陶芸においても同じく、華を取り去った黒の世界こそが真の世界であり、千利休の提唱する美学であります。ゆえに、”品格の高き黒”が在って、初めて天目の景色は評価されるものであります。

また、利休の、まだ若い頃の茶会記には、最初天目茶碗を用い、程なく「天目茶碗を天目台を使わずに用いる」という点前を行って、茶会記に特筆されています。やがて天目を用いる事が無くなるのですが、利休の最初期の出会いと、その侘びへの志向性を感じるもの。必ずしも天目台を用いる必要がない事を、利休は示してくれています。

 

- 2.瀬戸と天目 -
 

 日本において”天目”の名を唯一獲得する事が出来た産地は瀬戸であります。瀬戸は当時の最先端技術を有する窯場であり、格調の高い舶来骨董品であった建窯の天目茶碗を目指しつつ焼成に挑みます。しかし、遠く及ばない品々。その”至らぬ作品”を、利休は”侘び茶道に適した茶碗”として取り上げます。”もののあわれ”という考え方でしょうか。

 やがて、利休茶道の広まりと共に”灰被天目”としてその評価が定着すると、侘びを理解し共鳴した茶人大名などによって秘蔵品にまで昇華します。同じく黒釉である唐物茶入の製作にも取り組む事で、遠州流など江戸時代に主流であった武家茶道において、非常に高く評価される事になりました。

 産地としては、厳密には瀬戸と美濃、各論があります。しかし当然ながら、当時の美濃に移住した職人の素性は、「瀬戸の高度な技術を持つ職人」なのであります。当時は織田家本領の内の事。それ故に瀬戸の名こそが高いものでありました。

 ”天目”と云えば、今の陶芸界では「曜変天目」の未解明の陶技再現と共に語られる事が多いのですが、本来は茶道の歴史を共に歩んできた焼物であります。ただ純粋に作り上げていく天目茶碗の中、何十万個という中で偶然に焼きあがったものこそが曜変というものです。

 
- 3.耀燦天目 -
 

耀燦天目。耀として燦然と輝く茶碗。深みのある天目の黒色に、燦然とした窯変の美を加えた天目茶碗。天目の形状は作り込むほどに難しいものであり、高い品格が要求されます。中国建窯の窯跡にも足を運んで源流を探り、異様な重量を持つ建盞(ケンサン)天目の本家を目の当たりにして研究を重ねてきました。建窯の古い陶片も形状は様々で、何かマニュアル的なものに従っていては品格を得ることは出来ません。僅かな誤差で品格が失われてしまう、とても難しいものです。

その釉薬。天目釉。天目の作られた建窯は薪を燃料とした窯で、その窯自体も「龍窯」という独特のものです。全ては自然偶発的な景色。それを制御下に収めるには、土の成分、釉薬の配合、釉薬の厚み、焼成の加減を調和させる必要があり、とても苦労の多い仕事です。極めて限定された条件下でしか出ない、窯変の美。同じ窯の中でさえ、位置によって出たり出なかったりする繊細な条件。天然材料の下で取り組む本物の世界。”天目に手を出すと破滅する”と云われる陶技ですが、数百の茶碗を焼いて、ようやく採れるのは僅か。

景色の窯変は、厚く掛けられた鉄の釉薬。天目の重厚のある形と土と相俟って重厚な雰囲気を漂わせます。その懐の深い黒色に、美しい窯変の景色を加えたものを、耀燦天目としております。天目作家として追い求めてきた天目茶碗の世界です。追いに追った末、ようやく一定の水準に到達し、区切りとして名付けた呼称であり、思い入れのある名前です。曜は陽の光。燦は燦然とした輝きであり、黒き天目に現れる輝きを込めた名称となっております。

古くは六古窯に始まる伝統窯業の地・瀬戸。粘土、鉄分、微量な添加材に繰り返し調整を施し、ただ純粋に、作品を作り続けております。 重量のある本歌に近いものから、軽目に仕上げたものまで、様々に製作しております。


 

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